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2022.09.29読物

居合の道ということ

しばしば引用される俳聖松尾芭蕉の有名な捨て台詞があります。

《古人の跡をもとめず 古人のもとめたる所をもとめよ》(松尾芭蕉「柴門の辞」『風俗文選』)

先師先人の成し遂げた遺業の結果・形骸(ぬけがら)を追い求め真似するのではなく、何を成そうとしていたのか、何を求めていたのかという、その理想としたところ、その志・精神を学べ、ということでしょうか。

居合を学ぶには、開祖・流祖以来の歴代宗家の工夫・研鑽の賜物であるところの、所属する流儀の掟、業前の有り方(形ではない)を正確に修得・練磨し、流派の正しい掟・業に精通しなければなりません。しかしながら、それは武術修業の最終目標・到達点ではありません。

武術の修練とは、先師先達からの「武技」の提供であり伝授継承ですが、先師先達から継承されるその武術の真諦とは、既にそこにある極意ではなく、極意への通路であり、接近の仕方、極意への光の当て方なのです。絶対的な、究極的な一つの極意が今そこにあるのではなく、種々様々な先師先人の武技・武術の延長線上に(参考にして)、自分なりの武技・武術への光の当て方を見出さなければなりません。

武術に於ける武技の継承は、極意へ至る道程の通過点、極意への正しい見通しをつける為に必ず通らねばならない、極意へ至る通路の道標なのです。

そして、それが道標であることに気付くことが出来るほどの者ならば、その単なる道標に過ぎないものを通過することが、実は如何に困難なことであるかは、痛いほど分かることでしょう。

 追記
   蛇足ですが、道場主心の一首
      〈居合とは壁に向かいて太刀抜きて
             敵にもあらぬ影に物言う      聞霜〉
   刀を介しての自己との対話=己亊究明、それが稽古です。
        “我が行く手を遮るのもの、何物(者)をも一刀両断にして通る”のが
   居合の精神です。“何者をも”とは存在するもの全てのことですから、
   当然神仏も含まれます。しかし、神や仏が我が眼前に現れるはずが
   ありません。もしそれが出現したら、それは自己が作り出した幻影
   に過ぎないのです。それを迷いと言うのです。芭蕉の言う、古人の
   跡です。だからこそ、鬼神といえども、例え仏菩薩であろうとも斬って
   捨てるのです。その場に“居”て、古人の抜け殻を切り捨てて、自己
   と向き“合”う、刀による会話、それが、“居合”です。